「全部私の責任です!!」という言葉を、「メンタルが強い」と評価してもいいのだろうか?
「全部私の責任です」と言う人ほど、組織を弱くしてませんか?
先日、あるスタッフについて、こんな評価を耳にしました。
「あの人は何か問題が起きたときに、『全部私の責任です。だから私が頑張ります』と言える。メンタルが強いよね」
その場にいた多くの人が、納得していました。
責任から逃げないとか人のせいにしないとか自分が矢面に立つとか。
確かに、立派なスタッフに見えます。
でも、、、ほんまか?
本当に、それはメンタルが強いのか?。
むしろ私は、
「全部私の責任です」と言う人がいるから、組織は何も変わらなくて済む。
って思ってしまう。
「私が頑張ります」は、最も歓迎される問題解決
問題が起きたとき、誰かがこう言ってくれると、周囲は安心します。
「私が対応します」
「私がフォローします」
「次から気をつけます」
「全部、自分の責任です」
話が早いからです。
原因を調べなくていい。
仕組みを変えなくていい。
役割分担を見直さなくていい。
周囲も自分の行動を振り返らなくていい。
一人の責任感によって、その場がきれいに収まりますよね。
だから、抱え込む人は高く評価されます。
周囲にとって、とても都合がいいからです。
本人も、責任を引き受けたことで「逃げなかった」という感覚(満足感?笑)を持てます。
しかし、問題の原因は残ったままです。
何の解決にもなってないんですよ。
そして同じことが起きたとき、またその人が呼ばれます。
「あなたなら何とかしてくれる」
こうして、責任感の強い人は信頼されるほど、逃げられなくなっていきます。
私も「自分の責任」で終わらせていた
役職者になったばかりの頃、私もそうでした。
スタッフが辞めた。
利用者さんからクレームが来た。
多職種との連携がうまくいかなかった。
売上が下がった。
問題が起きるたびに、
「自分の責任だ」
と考えていました。
それが役職者の覚悟だと思っていたからです。
部下のせいにしない。
会社のせいにしない。
環境のせいにしない。
自分がもっと頑張ればいい。
当時は、それを前向きな姿勢とか男気とか責任みたいに思っていました。
しかし、今振り返ると、私は現実を見ていたのではありません。
現実を自分一人で説明できる話に変えていただけでした。
「自分が悪かった」
そう結論づければ、話は簡単になりますよね。
原因を一つに絞れるからです。
自分が変わればいい。
自分が努力すればいい。
自分がもっと強くなればいい。
しかし、現実はそれほど単純ではありません。
自責は、責任感ではなく現実逃避になる
例えば、スタッフが退職したとします。
管理者が「私のマネジメント不足です」と言えば、謙虚で責任感のある人に見えます。でも、本当に原因はそれだけでしょうか?
本人の家庭事情。
仕事内容との相性。
待遇。
人間関係。
体調。
通勤時間。
将来への不安。
組織の制度。
いくつもの要因が重なっていたかもしれません。
管理者に改善点がなかったと言いたいのではありません。
自分に原因があることと、原因が自分だけにあることは違うのです。
分けてかんがえよう、ということです。
「全部自分の責任」と言った瞬間、それ以外の原因を見なくて済むようになります。
その意味で、自責は必ずしも誠実ではありません。
場合によっては、複雑な現実から逃げるための、最も立派に見える方法です。
責任を取ることと、原因になることは違う
私は今、責任と原因を分けて考えています。
管理者として結果に責任を持つ。
これは必要です。
しかし、責任者であることと、自分がすべての原因であることは同じではありません。
例えば、スタッフが同じミスを繰り返したとします。
管理者が「私の指導不足です」と言うだけでは、また同じことが起きます。
必要なのは、誰が悪いかを決めることではありません。
なぜ起きたのかを分解することです。
教育内容は適切だったのか。
手順が複雑すぎなかったか。
業務量が多すぎなかったか。
確認の仕組みはあったか。
相談しにくい空気はなかったか。
本人は説明を理解していたのか。
それとも、理解していても行動しなかったのか。
ここまで見なければ、再発は防げません。
「私の責任です」は謝罪にはなります。
しかし、分析にはなりません。
責任を引き受けるだけでは、問題は解決しないのです。
頑張る人がいるほど、周囲は成長しなくなる
責任感の強い人は、職場でも家庭でも頼りにされます。
誰かが休めば代わりに働く。
後輩が失敗すればフォローする。
家族が困れば自分が動く。
仕事が残れば、自分が持ち帰る。
その場は確かに助かります。
しかし、一人がすべてを引き受けるほど、周囲は考えなくなります。
誰かがやってくれる。
困ったら助けてもらえる。
最後はあの人が何とかする。
こうして、責任感の強い人が頑張るほど、その周囲は責任を持たなくなっていきます。
これは本人の意図ではありません。
本人は、ただ問題を解決しようとしています。
しかし、結果として、その人がいる限り改善されない構造が出来上がります。
私は、これが「責任感」の最も危険なところだと思っています。
一人の責任感で回っている組織は、強くありません。
一人の犠牲によって、弱さが見えなくなっているだけです。
「メンタルが強い」は、搾取する側に便利な評価
よく聞くメンタル強い論
「あの人はメンタルが強い」
「多少のことでは折れない」
「責任感がある」
「任せておけば安心」
しかし、この評価は誰にとって都合がいいのでしょうか。
(ってかメンタル強いってなに?)
弱音を吐かずに働く。
仕事を断らない。
問題を自分で処理する。
周囲に負担をかけない。
そんな人は、組織にとって非常に使いやすい存在です。
だから「あの人は強いから大丈夫」と言われます。
しかし、本当に大丈夫かどうかを確認している人は、ほとんどいません。
「メンタルが強い」という言葉には、残酷な面があります。
それは褒め言葉であると同時に「あなたには、これからも耐えてもらいます」という業務命令になることがあるからです。
責任感がある人ほど、自分でもその評価を手放せません。
期待を裏切りたくない。
弱いと思われたくない。
自分が止まれば、すべてが止まる気がする。
こうして、限界を超えても頑張り続けます。
そして倒れたときには「あんなに強い人が、なぜ」と言われます。
でも、強かったのではありません。
弱音を吐けない構造の中にいただけかもしれません。
本当に強い人は、自分を原因の中心に置かない
私は、本当にメンタルが強い人とは、何でも自分の責任にできる人ではないと思っています。
自分にも問題があった。
相手にも事情があった。
組織にも欠陥があった。
環境の影響もあった。
偶然も重なった。
その複雑さを、簡単な物語に変えずに受け止められる人です。
そして「その中で、自分が変えられるものは何か」を考えられる人です。
自分を責めるだけなら、答えはすぐに出ます。
もっと頑張る。
もっと注意する。
もっと強くなる。
しかし、構造を見ると、簡単な答えはなくなります。
人に任せる必要があるかもしれない。
仕組みを変える必要があるかもしれない。
誰かに責任を返す必要があるかもしれない。
自分には変えられないことを認める必要もあります。
こちらの方が、ずっと苦しい。
でも、こちらの方が現実です。
「全部私の責任」は、かなり傲慢な言葉でもある
「全部私の責任です」
一見すると、とても謙虚な言葉です。
でも、私はこの言葉には傲慢さも含まれていると思っています。
自分がすべての原因である。
自分が変われば、すべて解決できる。
自分がもっと頑張れば、周囲も変えられる。
そう考えているからです。
しかし、私たちはそれほど万能ではありません。
(そううまくいくかいな)
他人の選択は変えられません。
過去も変えられません。
組織の歴史も、一人では変えられません。
どれだけ努力しても、うまくいかないことがあります。
それを認めることは、無責任ではありません。
自分を世界の中心から降ろすことです。
管理者として責任を持つ。
親として役割を果たす。
仲間として支える。
それでも、すべてを背負わない。
私は、それが大人の責任感だと思っています。
私が一緒に働きたい人
私は今「全部私の責任です。私が何とかします」と言う人よりも「何が起きたのか、一緒に分解しましょう」と言える人と働きたいと思っています。
後者は、責任から逃げているわけではありません。
誰か一人を犯人にして、問題を終わらせないだけです。
自分の改善点も見る。
相手の責任も曖昧にしない。
仕組みの欠陥も調べる。
変えられない条件も認める。
そして、次に同じことが起きない方法を考える。
私は、それが本当の責任の取り方だと思っています。
責任感とは、何でも背負うことではありません。
責任を、持つべき人と仕組みに返していくことです。
「私が頑張れば何とかなる」
その言葉は美しく聞こえます。
しかし、一人が頑張らなければ回らない職場も、家庭も、チームも、すでにどこかが壊れています。
あなたが弱いから苦しいのではありません。
あなたが強すぎるから、周囲が弱いままでいられるのです。
そして、もっと残酷なことを言えば、
あなたの責任感は、問題を解決しているのではなく、問題が見つからないように覆い隠しているのかもしれません。




「責任を取ること」と「原因そのものになること」を明確に分け、問題を複雑なまま分解していくアプローチに強く共感しました。単一の自責や精神論に逃げず、環境や手順、関係性の問題として冷静に分析してこそ、本当の再発防止につながりますね。